コラム

 

 弊社の代表者が生活の中で感じたことなどをコラムという形でホームページに掲載させていただいております。

コラム令和4年10月1日 

代表取締役就任にあたり


このたび株式会社セクダムの代表取締役に就任いたしました。気付くと、警備業界の中だけで40年以上過ごしてきました。職人で商売をしていた父親の影響か、自分はサラリーマンには向かないと思い、学生時代にまともに就職活動をしないまま、まずは何をするにも資金を貯めなければと、当時は日給の高かった警備の世界に、とりあえず飛び込みました。ところが、そこから様々な方との出会いがあり、様々な節目で思いもよらぬ引き立てを受け、さらには、お世話になった方から新たな警備会社の立上げに誘っていただき、望外の厚遇をいただくなど、自分としてはただただ流れに逆らわずに生きてきただけなのに、人との出会いに恵まれて、本当に幸運(ラッキー)な人生だったなあと思っています。そんな中、思わぬ偶然から当社の創業者である竹下年成氏と20年ぶりに再会しました。その後、今から10年前に竹下氏が株式会社セクダムを設立。「警備員」という職業が人気の無いものになってしまった中、「現場の警備員さんが安心して生涯を託し、誇りをもって働ける・・・自分が理想とする会社を作りたい」という竹下氏の思いに惹かれ、5年前から私も役員としてお手伝いをさせていただいてきましたが、このたび、まさに思いもよらず代表取締役の職を引き継がせていただくことになりました。以前、私の連れ合いが、私のことを有名な占い師に見てもらったことがあります。「強烈なチャッカリ運」というキーワードが出たようです。努力以上の(大した努力もしないのに)多くの果実が転がり込んできて、周囲をも幸せにする・・・だそうです。重責を引き継ぐにあたり、不安ばかりが先に立ちますが、相談役に就任した竹下氏と力を合わせて、また自分自身の「運」も信じながら、その「理想」に一歩でも近づけるべく、微力ながら努力してまいります。

当社を信頼してお取引をいただいていますお客様に対しては、いつでも「誇りをもって生き生きと働く警備員」を派遣させていただくべく、全社一丸となって誠心誠意努力してまいりますので、今後とも倍旧のご愛顧とご指導を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。

令和4年10月1日
株式会社 セクダム
代表取締役 岩田清一

コラム令和4年10月1日

人生の“アディショナル・タイム”


ワクワクする生き方ができれば本望である5年前に同窓会(中学校)が平日に行われるようになってそうか同級生はほとんど年金暮らしか・・。羨ましいような羨ましくないような・・。タイトルのアディショナル・タイムとはサッカーの試合で使われ『加えられた時間』と言う意味だそうで、一昔前まではロス・タイムと呼ばれて世界記録は最長28分(イングランドでの記録)だそうです。日向坂46の歌のタイトルにも使われているのは皆さんご存知ですか? 28分と言えばサッカーの前半後半合せて90分ですから割合にして31.1%になり、これを人生85年と計算すれば何と26年のアディショナル・タイムが有ってもおかしくない計算になります。もっとも、人生の残りなんて誰も表示してくれませんから、あくまで計算上の話です。

私の父は69才と4ヵ月で私が31才の時に亡くなりました。現在私は69才と11カ月と言う事で、父親が生きて来れなかった人生を今生きていることになります。今回、株式会社セクダムの代表取締役を辞任し、岩田清一氏に引き継 いでもらう事にしました。創業10年、70才の節目で会社をバトンタッチできることを大変幸せな事と感じています。半年前に決断し女房に話したところ「私も役員辞めます!」と言う事で二人そろっての退任となりました。サッカーの試合ではその時点での勝ち負けで残り時間の戦い方が変わってきますが、私は今勝っているのか負けているのかも分からないまま、さらなる得点を目指して頑張って行こうと思っています。私の人生にとっての得点とは今まで見た事も聞いた事もないような事に挑戦したり、世の中の様々なことをもっともっと勉強したりすることです。得点できるかどうかも知らないから前向きに頑張る。その時その時を大切に生きる。背筋を伸ばして生きる。これが私のアディショナル・タイムの考え方です。 最後のホイッスルが鳴る瞬間まで。

一つの区切りとしてこれまで本当に多くの方々に支えられて会社を営んで来ることができました。 お一人お一人に感謝・御礼を心と腹の底より申し上げ、ご挨拶といたします。

令和4年10月1日
株式会社 セクダム
相談役 竹下年成

コラム令和3年12月1日

”年末のアメ横の警備がいっとう(一番)好きです!”

『安いよ!安いよ!お客さん。この立派な蛸がたったの1,000円』年末の上野アメ横商店街は5日間で170万人もの買い物客でにぎわう。その雑踏警備がいっとう好きです。と言ってくれた河林警備員。なぜ好きなんですか?と尋ねると『人を見るのが大好きなんです。アメ横ではたまに 立ち飲みで回りの人達の他愛もない会話を聞きながらお酒を飲むのも大好きです。毎年の年末警備を楽しみにしています』2007年12月の話です。彼にとってその年の年末警備が3度目で 最後のアメ横になりました。

あれから14年の今年11月24日、私は週に3回だけ買う事にしているスポーツ新聞に目を通していました。 普段は気にも止めない芸能欄の生田斗真の写真の下の映画「渇水」の文字に目 を見張りました。まさかと思いつつ記事を読み始めると直ぐに河林 満氏の文字が・・。『やりましたね!河林さん!おめでとうございます!』アメ横警備が好きだった彼が30代後半に書いた小説が生田斗真主演で映画化となりました。奥さん(幸恵さん)の喜ぶ姿がすぐに浮かびました。 2008年1月19日に腦出血の為に58歳の若さでお亡くなりになりました。 通夜の席で奥さんが満さんの無念さを噛みしめるように粛々と話をしてくださいました。満さんの生活すべてが文学で、警備員の仕事をしたのも自分の小説の為であったこと。

そして最近やっと新しい小説の構想が、しかも大きなテーマとして形ができて来たと喜んおられたことなどでした。小説「渇水」は30年前の第103回芥川賞の有力候補となりましたが惜しくも受賞出来なかった作品です。(第109回芥川賞でも「穀雨」で2度目の最終選考となりましたが未受賞)「渇水」の評価は選考委員の間でも意見が割れたように書かれています。

生田斗真さんが演じる主人公は市の水道課の職員で、水道料金の長期未納者の自宅を訪問し、料金徴収や納付交渉、最終的には同行の職員と二人で水道の供給をストップ(停水)させる仕事に従事しています。その滞納者の中でも特に多難だったある家庭を訪問し、留守番の姉妹(小5と小3)に出会います。 両親はあまり家には帰って来ませんが幼い二人はすいどうやさんが何しに家に来たのかは理解しています。家のありったけの容器に水を貯めさせた後に主人公たちは仕方なく停水措置を取り市役所に戻ります。毎日滞納者との交渉や応対は、時には罵声を浴びせられ、脅かされ、ストレスが貯まり放題。同行の若い職員とストレス発散に涼を求めて休日に滝を見に行き、そこで先ほどの姉妹の母親に良く似たカップル(夫ではない)を見かけます。 翌朝出勤した主人公は待っていた刑事から先日の姉妹が電車にはねられて死亡したと聞かされます。 姉妹二人だけでの自殺だったと。この小説が世に出た頃はドラマ水戸黄門に代表されるように最後は“めでたしめでたし”で物語が終わることを読者も賞の選考者も好んでいた様に思います。

選考委員の一人は「最後の子ども達の自殺にはがっかりした」と発言した方もいたそうです。小説発表から30年後の今、我が子に対するイジメ問題やあげ句の殺人、育児放棄の衰弱死、小中学生の自殺など悲惨なニュースとなって毎月の様に報道される世の中になってしまいました。自殺した子ども達は“死”の意味をあまり理解できていなかったと思います。 5年生の姉は二つ下の妹に『線路で寝んねしていると目が覚めたら食べられるイチゴやご馳走がいっぱいある所にいるよ』と教えたかも知れません。 姉は電車が近づいた時に寝返りを打ったのを運転手が見ています。このさりげない描写が二人の自殺への恐怖心の違いとなって胸を締め付けます。河林さん、ここに来てこの小説「渇水」が世に出たことはきっと将来の日本に警鐘を鳴らす為だったんですね。 「渇水」とは水道を止めた事ではなく、幼い二人の姉妹には両親の『愛情と言う水』が渇いてしまっていた 私はそう思います。 おそらく停水をした主人公達は自殺したと言う結果だけを一人の人間として生涯背負って生きて行ったのだと思います。また、奥さんが話されていた次の小説の構想は警備員に係るものだったのではないでしょうか?年末のアメ横商店街の風景を題材にした警備員から見た日本だったかも知れません。又昨今事件の相次ぐ電車の車両内での暴漢や放火事件、遭遇した警備員の葛藤などと想像して話したら、「そんな単純な小説は書きませんよ!」と笑ってくれたでしょうね・・。映画「渇水」のサブタイトルに『その男がたしたかったのは“心”だった』と河林さんの名前を使っていただいたスタッフの皆さんに感謝しながら、また来年公開される映画は原作とは多少の変更があるかも知れませんが河林さんが訴えたかった“何か”をワクワクしながら心待ちにしております。

令和3年12月1日
株式会社 セクダム
代表取締役 竹下年成

コラム令和3年8月31日

苦しみの先にあるもの、夢の先にあるもの

8月28日パラリンピックのトライアスロン全盲の部のスタート4時間前、日本代表として出場する米岡選手のガイド役の椿 浩平選手(29才)にメールを送りました。『苦しみの先にあるもの、夢の先にあるものを実感して来て下さい』そのわずか5時間後に本当に銅メダルを米岡選手と二人で掴み取りました。ビックリ!椿 浩平君と出会ったのは彼が13才の時、ジュニアのチームを作るためのオーディションに参加してくれました。ジュニアチームは北京オリンピック目前に解散をしましたが、順調に成長した彼は高校3年生でワールドシリーズのトライアスロン横浜大会で世界のトップ選手と競うまで成長しました。スタート前の選手紹介で『椿 浩平選手、高校生です!』とアナウンスされると歓声と拍手が一際大きくなったのを今でもはっきり覚えています。

日本ジュニア選手権4連覇をはじめU23優勝などまさに『日本期待の星』となり、筑波大学卒業後に三井住友海上にトライアスロン選手として入社しました。そしていきなり日本選手権3位となり、優勝の古谷純平選手と共に三井住友海上を実業団トップに押上げるとともに24歳で結婚もし、間もなく奥さんの妊娠もわかりました。しかし幸せの頂点にいる彼を襲ったのは髄芽腫(ズイガシュ)と言う悪性の脳腫瘍でした。摘出後もガン治療の放射線治療を続けて行くうちに、辛くて辛くて主治医に『もう治療を止めて楽になりたい』とまで言ったそうです。

ここで彼を救ったのは彼の赤ちゃんでした。出産に立ち会って、奥さんの頑張りと自分の命を受け継いだ子供を抱いた時に、もう一度『生きる』決意をしたそうです。米岡さんと二人三脚で掴んだ銅メダルにはこう成る『必然』があったのかも知れません。
そして家族以外に私が(ありがたいなぁ)と思うのは発病後も5年間 彼を雇用し続けた三井住友海上さん、パラのガイド役を進言して頂いた川合監督さん。本当にありがとうございました。
二年前の仙台七ヶ浜での椿君との再会と米岡さんのまだ少し自信なさげな『東京2020を目指しています!』が現実となり、さらに2024のパリではパラではなく、オリンピックの個人で正式種目代表として『もう一度パリを目指して全力で頑張ります! 椿 浩平』と力強いメールが届きました。
【百折不撓】(ひゃくせつふとう)パラリンピックのアスリート全員に教えて頂きました。
当社は全国で6カ所のトライアスロンチームを支援しています。 

令和3年8月31日
株式会社 セクダム
代表取締役 竹下年成

パリ五輪を目指すトライアスリート

”同じ夢を追いかけたい”

 トライアスロンのオリンピック日本代表第一号と言えば2代目ミスタートライアスロンこと小原 工 選手(現在54歳)。2005年3月私はニュージーランドで合宿中の八尾 彰一・小原 工・田山 寛豪選手達を急遽訪問することにしました。それは2月末に彼らの実業団チームの会社を退職したため、報告と別れを直接告げるためのものでした。
 その時に彼らの口からでた言葉が「竹下さん、いつかきっと実業団チームを作ってください!」です。次の仕事は決まっていましたが、一会社員にそんな力もアテも有る筈もなく、苦笑いだけしていた様に思います。
2012年12月に独立をする時にそのニュージーランドでの彼らの声を思い出していました。これからの人生は彼らと”同じ夢を追いかけたい”そして世の中に恩返しをすることで自分らしく生きて行きたいと思いました。
 それから6年後、彼らのチームのサポートを僅かずつですが始めました。そして昨年は古山 大 選手、さらにこの4月からは小原 工 氏の長男小原 北斗(22歳)をセクダムに入社させました。

小原 北斗 選手

北斗選手の夢は「父親の跡を追いかけ続けること」「オリンピックに出場すること」。2012年の時、彼は13歳。本人と父親のオリンピック親子出場の夢へとふくらんで入社する事になりました。
新型コロナの影響で会社経営もこれまでのように順風満帆ではなくなりました。ボランティアやCSR活動から撤退する企業が益々増えることは安易に推測がつきます。しかし苦しい時だからこそそのお金の使い道を価値あるものにしていきたいのです。
当社の警備員さんや社員にも”社長のわがまま”を許して頂きたいと願うこの頃です。

セクダムはトライアスロンのチームを
全国で6か所サポートしています。

株式会社セクダムは上野にある警備会社です。

令和3年3月25日
株式会社 セクダム
竹下年成

コラム令和2年12月「神頼みとラジオ体操と健康と」

“コロナに負けてたまるか”

静かに幕を開けたオリンピックイヤーからもう一年、オリンピックは延期され仕事は激減しやむを得ず退職をされた方々、本当に残念ですし申し訳ありませんでした。激動の2020年も残り少なくなりましたが、セクダムは頑張って皆さんのお仕事を確保するために社員一同奮闘しています。恒例の年末一時金も例年並みに支給する事ができました。これはコロナ渦の中ウィルスに注意しながら休まずに勤務を続けていただいた皆さんのおかげです。ありがとうございます!私はと言いますと8月から毎朝5時35分に家を出て、上野公園→上野東照宮→時の鐘(6:00)→不忍池→ラジオ体操を繰り返し、徳川家康公にコロナ平癒の神頼み、ウォーキングと体操で健康を手に入れ、季節の移り変わりを肌と目で感じながら俳句を作ったりしています。

ラジオ体操の歴史について  “もう直ぐ100年”

1925年にアメリカの生保会社メトロポリタンライフ社が世界で最初にラジオ体操を始めました。日本では1928年にラジオ体操第一(神田佐久間町の公園で開始)戦時中は中止となり、再開は1951年(台東区松が谷の松葉公園)この翌年にラジオ体操第2が誕生しました。

♫ 新しい朝が来た! 希望の朝だ 喜びに胸を開け 青空仰げ♪ 昭和の戦後生まれの子供たちは夏休みの朝早く、いや応なしに起こされスタンプカードを首から下げて会場に跳んで行きました。写真の左は上野公園の広場にある「ラジオ体操ひろば記念碑」写真中央は1627年に創建された「上野東照宮の灯篭」400年前に全国の諸大名が寄進した物です。そして右が朝の体操風景、約300人の昔の若者を中心に集まっています。

『2021年は辛抱の年に』 我慢する事はストレスを感じます、しかし辛い事も悲しい事も素直に受け止めて抱きかかえる。 そんな辛抱の年気持ちは温かく迎えましょう!

令和2年12月11日
株式会社 セクダム
代表取締役 竹下年成

コラム令和2年7月「人間だもの」

“相田みつをさんの言葉力”

押切警備士が先日ある駅での勤務中にお客様から「これをどうぞ」と言って封筒を渡され、「お金じゃなくて相田みつを美術館の入場券です」。 どうやら美術館の館長ではないが責任者のお一人のようで、「あなたの挨拶がすばらしいから・・、私も一生懸命に人に挨拶をしていますよ!」と本来であれば丁重に辞退、が正しいかも知れないですが、優しい笑顔に思わず受け取ってしまったとのこと。  (相田みつを美術館は有楽町の国際フォーラムの1階にあります)相田みつをさん(1924年~1991年)足利市出身67才の時に脳内出血でこの世を去りました。60才頃から徐々に名前が有名になったとは言え、亡くなられるまでかなりの貧乏くらしをされ、奥様や息子の一人氏(現館長)はご苦労されたようです。1枚の書を完成させるために最高の筆と硯と墨で同じ文字を200枚くらいは書いていたそうですから、文字と言葉と原価にどれほどのエネルギーを注入されていたか想像がつきます。今、マスクが無い、自由が無い、こんな時節ですから皆さんにも紹介したい言葉があります。

『 うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる 』

仏教のお教えに“少欲知足”と言う言葉があり、欲を少なくして足りることを知り、今与えられているものに満足をすると言うことばから引用されたと言われています。

『 つまづいたっていいじゃないか 人間だもの 』

なぜか私は間違って覚えていました。「つまづいたっていいじゃないか だって 人間だもの」なぜこう思い込んでいたのかを振り返りました。そうだ 笑点の林家木久扇師匠が間違えて吹聴していたのではないでしょうか?(独断)相田さんはお亡くなりなる寸前に奥様に「来世でも又いっしょになろうな・・」と囁かれたそうです。 それを聞いた奥様の最後のことばは「来世でも・・?」だったそうです。(奥が深い)

令和2年7月1日
株式会社セクダム
代表取締役 竹下年成

コラム令和2年6月「黙っていられない」

“横田 滋さんの無念”(慎んでご冥福をお祈り申し上げます)


今から遡ること22年前、テイケイ株式会社の社内に見慣れない告知文書が掲示されました。表題は『横田めぐみさんを救う会 国民大集会 日比谷公会堂に参加者求む』掲示したのは当時の警備会社社長。 初めて見る横田めぐみさんの名前とあどけない写真に当時の私は正直な話、社員にイデオロギーを持ち込んで欲しくないと思い参加しませんでした。そして集会当日の日曜日、2時間程度の集会に会社から参加した社員は約100人。「どうだった?」って聞くと「内の会社の人間ばっかりで、会場全体でも500人いたかな?」という返事でした。でも社員一人一人に会社から現金で1万円が出たことも知る。

一年後の平成11年、またも社内に「横田めぐみさんを救う会 国民大集会 日比谷公会堂に参加者募集」の告知、この頃でもまだ拉致が事実として取り上げる風潮はなく、「北朝鮮の拉致などない!」と断言した社会党党首などの発言が尾を引いているようでした。はじめて集会に参加しました。 全体で1000人程度はいたでしょうか、でも五分の一は社内で一万円欲しさに集まった人間。平成12年第3回大集会に参加、会社の担当は私になっていて社長に社内参加者の総数を事前に報告、「260名です」「そうか・・集まったな!」やや絶句。 総務で一人1万円で260万円を用意してもらい、当日持参しました。この日は総勢2000人以上は集まったと翌日各社新聞が集会の盛り上がりを初めて採り上げました。 社内での参加者の報告を社長にしに行くと、朝刊に目を通していた社長が嬉しそうに「役目は終わったな・・」とつぶやきました。誰に自慢する訳でもなく、政治的な利用をする訳でもなく、社員に朝礼で話をする訳でもなく、サッと身を引いて何も無かったように振る舞う潔さ、いさぎ良しとはこう言うことだと身をもって教えて頂きました。 さらに噂で聞いた「参加者の一万円は社長個人の金」と言う噂の真相を総務の常務に確認すると「私が社長の個人口座から毎回おろして来て準備してましたよ」との話。3回で総額560万円か、横田滋さんの無念の陰に、こんな人が20年以上前から居られたこと、もう黙ってはいられないです。

令和2年6月15日
株式会社 セ ク ダ ム
代表取締役 竹 下 年 成

コラム令和元年12月「ご挨拶」

そして、神戸

『神戸~泣いてどうなるのか~♪ 捨てられたわが身が惨めになるだけえ~♫』 もうすぐ(来年1月)阪神淡路大震災から25年を迎えます!この曲は震災後の神戸の人たちが復興の為にと望んで、その年のNHK紅白歌合戦でクールファイブ(前川清)さんが歌って瞬間視聴率トップを取りました。震災二日後に当時の警備会社社長に神戸の復興の為に自分が行くことを決め志願しました。翌日部下たちが壮行会を開いてくれてこの歌『そして神戸』

を熱唱しながら、腹をくくった事を思い出します。今はとても大げさに聞こえるかも知れませんが、震度4~5の余震が続きライフラインが断たれたり極めて食糧難の場所に東京から一人で行く訳ですから、身の危険や試練を覚悟しての事でした。


メリケンパーク

私は今日、震災後初めてメリケンパークの震災メモリアルに来ています。当時の岸壁が60Mほど崩れ落ちた状態で海に浸かったまま現在も保存されておりました。(写真)ここには当時海中に転げ落ちた車が数十台も折り重なって沈んでいたのです。暗い街、人が歩かない街、ゆがんだ街がリアルに蘇ってきて、祈りを捧げないと居た堪れなくなっていました。震災はいつ、どこで起きても不思議ではありません。6,000人以上もの死者を出した阪神淡路大震災はその犠牲者の方たちが残された『教訓』を我々は決して無駄にしてはならないと心から思います。私が神戸に残したものは、関東からどんどん送り込んだ警備員さんが治安や復興の為に行った活動の、形に残らない物。 その数350人以上で、阪神高速、大丸デパートの撤去、明治生命ビル・神戸新聞社ビルの解体、西宮や長田団地の補強工事、ポートアイランドの通行止め、阪神石屋川の車庫復旧、JR・阪急・阪神鉄道の振替輸送の人員整理など半年以上に渡る活動でし。自分の人生を振り返る時『♪そしてひとつが終わり、そしてひとつが生まれ~♪夢の続き見せてくれる相手、探すの~よ~♫』 この歌で過去から未来に気持ちを切り替えた神戸の人たちと、明るく賑わいの街にみごとに復興した神戸の街にこれからも鎮魂の気持ちとエールを送り続けたいと思いました。皆さん、地震や水害に備えましょう! 大切な家族の為に、自分と日本の為に!

令和1年12月1日
株式会社 セ ク ダ ム
代表取締役 竹 下 年 成

コラム令和元年10月「ご挨拶」

コラム その11(8期スタート)“三方よし”とは言うけれど


業務がら色んな会社から転職をされて来られる警備員さんが我社では多く、前職の会社のHPをチェックする事もしばしば有る。必ず読むのは『企業理念』 多くの社長さんが記載しているのが“三方よし”もうひとつ
が“当社に関係するお客様、取引先、従業員やその家族など、すべての人の幸福を追求する”などと書かれている。ホンマかいな?・・と思う。大阪商人はその昔“買うての幸い、売っての幸せ”の『両方よし』の商いをしていた。私が社会人の第一歩に大阪を選んだのは、当時TVドラマで人気があった花登筺さんの原作【どてらい男(やつ)】を見て、生意気にも“商売の原点は大阪やな・・”と。 就職した創業70年を越す大阪のニットメーカーは兎に角品物に真面目な会社だった。”買うての幸い、売っての幸せ”を地で行く会社だったが、経営としては決して上手ではなかった様に思う。近江商人の十訓の中に『無理に売るな、客の好むものも売るな、客の為になるものを売れ』『正札を守れ、値引きは却って気持ちを悪くするくらいが落ちだ』とあり、この二つがどうもその会社には欠けていたように思う。 

8年で辞めた。三方よしとは『売り手よし、買い手よし、世間よし』の事であるが、売り手にとっては(儲け)買い手にとっては(満足度)そして製品そのものが(世間のお役に立つ)と言う事である。しかし買い手の満足度には『安くてエエ物』が出て来て相反する部分がある。昨今では加えて『働き手よし』が入り“四方よし”と言われる時代になってさらに高度なことになっている。また冒頭の他社が掲載している企業理念『当社に関係するお客様、取引先、従業員やその家族などすべての人の幸福を追及する』はカッコ良すぎて私には書けない。経営者が回り全員の幸福を追及するのは勝手だが、具体的にどうやって幸せにするんですか? って質問をしてみたい。私の若い頃は部下の全員を引き連れて、大きな会社にしてみんなを幸福にしたいと思って  いた「仕事キツ過ぎてついて行けません」「家庭が崩壊します」「銭の問題では有りません」「就職決まりました」などと言って辞めていく部下を『そうか・・・』と見送った。人には人の幸福の尺度とそれぞれの価値観があるんだと考えるようになった。 経営者のすべての人を幸せにする気構えは立派としても、そう言う大それた思いは心の中にさりげなく置いておく。 そして“四方よし”の取引にする為には『正直・奉仕・信用・品質・熱意・儲けの分配』の理念が強くあってこそ出来る事を我々はまず、忘れてはいけない。

令和1年10月1日
株式会社 セ ク ダ ム
代表取締役 竹 下 年 成