“豆腐のような人間”


明治時代の俳人・荻原井泉水は、人間の柔軟性について、豆腐をたとえにしてうまい表現をしている。豆腐は四角四面の仏頂面だが、柔らかさ申し分ない。身を崩さぬだけのしまりもある。煮ても焼いてもよし。沸きたぎる油で揚げても、寒天の空に凍らしてもよい。相手を選ばぬ。チリ鍋、スキヤキ、おでん、正月の重箱でも、仏事のお皿にも一役買う。実に融通がきく、無我の境地に至っている。それは重い石臼の下をくぐり、こまかい袋の目を漉して、さんざん苦労したからである。初めは、冷水の中にドップリと浸けられた上で、熱湯の中をくぐりぬける。その後、石臼で自分という形を無くされ、にがりによって程よい硬さにされる。 なるほどと感心した。柔軟性というものは難しいものである。ともすると八方美人、あるいは追随となってしまう。柔軟であることは、しなやかであること。しなやかとは、いわば柳である。 根や幹はしっかりしているが、枝はしなやかに風に舞う。大風に対しては、そのしなやかさが身を守るのであろう。強く立ち向かう枝葉、折れてしまうのである。人生、修行浅く、そのような境地にはなれないが、含蓄のある、心したい「豆腐の話」であった。

日々雑感  ~青亀恵一氏のコラムより

私は男ばかりの3人兄弟の末っ子、小学生のころのある元旦にオヤジが3人を正座させ、突然お前たち『豆腐のような人間になれ・・!』  はぁ?って思っていたら、続けて『豆腐は角(かど)があっても柔らかい。身は純白でどんな料理方法もできる。』幼かった私は、この後兄弟に手渡されるはずのお年玉のことが気になっていたと思う。しかし、この言葉を私は今日まで忘れたことはなかった。60歳を過ぎて、身に染みて考える。身の硬さ、柔軟性、しなやかさ、白さ、協調性、そのすべてが冷や水を浴び、熱湯にくぐらされ、粉々に砕かれて絞り取られ、最後は苦汁をのまされるからこそ養われたもの。ビールのあてに冷奴をつまみながら、30年前に亡くなったオヤジを想う。

平成30年6月
株式会社 セ ク ダ ム
代表取締役 竹 下 年 成